💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。
幕末の尊王攘夷運動や倒幕の文脈で語られることの多い尊王思想ですが、それは突発的に生まれた政治的スローガンではありませんでした。
尊王思想は、江戸時代を通じて積み重ねられてきた学問的探究の先で、結果として立ち上がってきた思想でもあります。
本記事では、尊王思想を一つの完成された主義として扱うのではなく、江戸後期の学問・思想史の流れの中に位置づけ直し、その成立過程と思想としての輪郭を整理します。
尊王思想はどこから生まれたのか
尊王思想は、特定の人物や学派が意図的に作り上げた思想ではありません。
江戸前期から中期にかけて、それぞれ異なる問題意識を持つ学問が探究を深めていった結果、同じ考え方の上で重なっていった現象として捉える必要があります。
垂加神道における天皇と正統性の位置づけ
垂加神道では、天皇は政治権力の直接的な担い手というよりも、道徳的・宗教的正統性の中心として位置づけられていました。
この段階における尊王的な発想は、幕府政治を否定するものではなく、むしろ既存の秩序を支える理屈として機能していました。
重要なのは、天皇が「統治者」というよりも、「正しさの基準」として語られていた点です。
ここでは尊王は、政治的主張というよりも、秩序の根拠を説明するための思想的装置でした。
垂加神道については、以下の記事で詳しく解説しています。
💡関連記事:垂加神道とは何か ― 朱子学と神道を結びつけた江戸前期の思想
水戸学が与えた歴史的・国家的な枠組み
水戸学は、日本史を体系的に捉え直す中で、天皇を歴史的正統性の軸として明確に位置づけました。
天皇は単なる象徴ではなく、日本という国家の連続性を支える存在として論じられるようになります。
ここで尊王的発想は、信仰や感情の領域を越え、「歴史によって裏付けられた正しさ」を持つものとして語られるようになりました。
尊王思想が後に政治的意味を帯びていく上で、水戸学が果たした役割は小さくありません。
水戸学については、以下の記事で詳しく解説しています。
💡関連記事:水戸学とは何か?徳川光圀の『大日本史』から幕末の尊王攘夷まで
国学による日本的精神への接近
国学は、政治思想を直接の目的とした学問ではありませんでした。
日本の古典や言語を通じて、日本とは何か、日本人の精神の源流はどこにあるのかを探究する学問でした。
その探究の過程で、天皇は「日本の始まり」や「日本的精神」を象徴する存在として浮かび上がります。
この段階で尊王的発想は、政治や制度を超えた、文化的・精神的な厚みを持つようになります。
純粋な古典の研究を行う国学から、神の国の思想が生まれていった背景については、以下の記事で詳しく解説しています。
💡関連記事:江戸中期の国学 ― 全てを理屈で説明できるのか
💡関連記事:江戸後期の国学 ― なぜ学問から「神の国」の思想が生まれたのか
異なる学問的探求が辿り着いた同じ場所 ― 尊王思想
尊王思想は、最初から一つの完成した思想として存在していたわけではありません。
宗教・歴史・文化という異なる領域で行われていた学問的探究が、結果として同じ地点に辿り着いてしまった現象として理解することができます。
異なる問いが同じ結論に辿り着いた理由
垂加神道は正統性を、水戸学は歴史を、国学は文化や精神性を問い続けていました。
問いの出発点は異なっていましたが、「日本とは何か」「正しさの根拠はどこにあるのか」という問いを突き詰めていく中で、天皇という存在が共通の拠点として浮かび上がってきます。
- 垂加神道:神道 → 天皇 (正しさの根拠)
- 水戸学:歴史資料 → 天皇 (歴史の連続性)
- 国学:古典(古事記など) → 日本とは何か → 天皇 (日本的精神の源流)
尊王思想は、こうした学問がそれぞれの探求を深めた結果、
同じ場所に行き着いて生まれた思想でした。
尊王は「発明」された思想ではなかった
尊王思想は、誰かが新しい主義として打ち立てたものではありません。
学問が深まる中で、「そこに辿り着かざるを得なかった」思想だったと言う方が近いでしょう。
この点に、尊王思想の特徴があります。
それは意図的に作られた思想ではなく、学問の探究の先で自然に立ち現れてきた思想でした。
江戸時代に正学(官学)とされた朱子学は、正しさを探究することそのものを善い行為とする学問でした。幕府が推奨したこの学問的態度が、結果として幕府自身を相対化する視点へとつながっていった点は、尊王思想の成立を考えるうえでも示唆的です。
こうした「学問が想定外の地点へ行き着いてしまう構造」については、以下の記事で整理しています。
💡関連記事:なぜ朱子学は尊王思想を生んだのか ― 幕府が想定しなかった“学問の皮肉”
尊王思想はどのように「思想化」したのか
江戸後期になると、尊王という考え方は学問内部の言説にとどまらず、価値判断の軸として自覚されるようになります。
この過程を理解することが、尊王思想の輪郭を捉える上で重要です。
尊王という言葉が持ち始めた役割の変化
尊王は、単なる敬意の表明ではなく、「何が正しいのか」「何を守るべきか」を判断する基準として用いられるようになります。
この段階で、尊王は学問用語から思想的スローガンへと性格を変えていきました。
それは、尊王が具体的な政策や行動を示すものになったという意味ではありません。
むしろ、判断の前提となる価値の中心として機能し始めたという点に特徴があります。
スローガン化の社会的背景 ― 学問と外圧の交差
尊王という考え方が学問の枠を超えて思想的スローガンとして意識されるようになった背景には、学問の成熟だけでなく、江戸後期の社会状況も大きく関わっていました。
対外的な緊張の高まりや政治への不信が広がる中で、人々は「何が正しいのか」を悠長に考え続ける余裕を失っていきます。そうした切迫した状況において、すでに学問の中で形を持っていた尊王思想は、判断と行動を支える分かりやすい言葉として前面に押し出されていきました。
尊王思想のスローガン化は、学問と外圧が交差した地点で生じた現象だったと言えるでしょう。
江戸時代後期(19世紀初頭以降)、日本の鎖国体制は次第に揺らぎ始めます。
以下の記事では、ペリー来航に先立つ対外的な衝突(文化露寇やフェートン号事件)を振り返り、当時の日本が置かれていた国際環境を整理しています。
💡関連記事:ペリー来航前夜 ― ロシア・イギリスとの衝突から見える江戸日本の転機
思想としての尊王が届いた範囲
尊王思想は、江戸社会全体に均等に広まった思想ではありませんでした。
主に武士や知識人層において強く共有され、庶民の多くにとっては、依然として距離のある観念であり続けました。
この限定性を押さえておくことは、尊王思想を過度に一般化しないためにも重要です。
尊王思想の輪郭とその性格
尊王思想は、「天皇を尊ぶ」という一文では説明しきれない、複合的な性格を持っていました。
その輪郭を整理することで、後の展開をより正確に理解することができます。
秩序を支える思想から、秩序を問い直す思想へ
当初の尊王的発想は、既存の秩序を補強する役割を果たしていました。
しかし江戸後期の社会不安や政治的停滞の中で、それは現状を評価し、問い直すための基準へと変化していきます。
尊王思想が持つこの二面性こそが、その複雑さの核心です。
尊王思想は「主張」ではなく「枠組み」だった
尊王思想は、具体的な政策や手段を提示する思想ではありませんでした。
それは、何が正統であるかを判断するための枠組みであり、その内部で多様な立場や解釈を生み出す余地を持っていました。
この性格を理解することで、尊王思想が後にさまざまな主張と結びついていく可能性も、より冷静に捉えることができます。
学問と思想
尊王思想は、感情的な熱狂や偶然の産物ではなく、江戸時代を通じた学問的探究の積み重ねの中から現れた思想でした。
その成立過程を振り返ることで、学問が必ずしも穏健な結論だけを生むわけではないこと、そして思想が社会に与えうる影響の大きさと複雑さを、冷静に捉えることができます。
現代の日本では、天皇は象徴として位置づけられています。
一方、江戸時代後期の日本では、天皇を象徴として尊ぶにとどまらず、正しさの根拠であるという思想にまで発展したことで、尊王思想はその後さまざまな思想へと展開していくことになります。
本記事は江戸時代の学問・思想特集の一部です。
江戸時代の学問・思想について、「時代の変化」と「学問の系統」という二つの視点から整理し、思想がどのように広がり、相互に影響し合ったのかを分かりやすくまとめていますので、関心のある方は是非ご覧ください。
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