明治時代の日本では、欧米諸国から様々な事を学び、近代化が進められたことが知られています。
特にドイツという国は、伊藤博文や憲法の文脈で耳にすることが多い国でしょう。
しかし、他の分野はどうだったのでしょう。すべてがドイツから学ばれたのでしょうか。
近代化を目指した日本は、どの国から何を学んだのでしょう。
本記事では、明治時代に留学した人・国・分野から、日本がどの国から何を学び、どのように近代化を進めていったのかを整理します。歴史を知ると、現代のニュースなどで見かける外国も、また違って見えるようになるかもしれません。
誰が・どの国から・何を学んだか
明治時代の日本では、海外から色々な事が学ばれましたが、
- 誰が
- どの国から
- 何の分野
を学んだのでしょうか。
本節ではまず、留学者の滞在先・分野などから、近代化日本の「学びの傾向」を読み解きます。
代表的な留学者
明治時代には多くの人が海外へ留学しています。
ここでは代表的な人物を20名程度抽出し、整理してみます。
| 人物 | 主な留学・滞在先 | 主に学んだ分野 | 日本への影響・備考 |
|---|---|---|---|
| 福沢諭吉(1835–1901) | アメリカ・欧州諸国 | 西洋社会・制度・教育 | 幕府使節として渡航。 西洋文明を広く紹介し、慶應義塾を発展 |
| 森有礼(1847–1889) | イギリス・アメリカ | 西洋社会・制度・思想 | 明治の学校制度・教育行政形成に大きな影響。 後の初代文部大臣。 |
| 西園寺公望(1849–1940) | フランス | 法律・政治・自由主義 | パリ留学。後に首相。 フランス的自由主義から強い影響 |
| 中江兆民(1847–1901) | フランス | 政治思想・哲学 | ルソーなどフランス思想を学び、 「東洋のルソー」と呼ばれる |
| 井上毅(1844–1895) | ドイツ・フランスなど | 憲法・法制度 | 明治憲法・教育勅語などの起草に関与 |
| 伊藤博文(1841–1909) | イギリス→ドイツ等 | 産業・政治・憲法制度 | 若年期は長州五傑として英国へ。 後に欧州で憲法制度を調査 |
| 山県有朋(1838–1922) | 欧州、特にプロイセン | 軍制 | プロイセン型軍制・国家制度から強い影響 |
| 桂太郎(1848–1913) | ドイツ | 軍事 | 陸軍のドイツ化を進めた中心人物の一人 |
| 東郷平八郎(1848–1934) | イギリス | 海軍・航海術 | 1871~78年英国留学。 帰国後、日本海軍の発展に関与 |
| 津田梅子(1864–1929) | アメリカ | 教育・女性教育 | 岩倉使節団の女子留学生。 後の津田塾大学につながる |
| 山川捨松(1860–1919) | アメリカ | 教育・社会活動 | 日本初の女子留学生の一人。 女性教育・社会事業に貢献 |
| 新島襄(1843–1890) | アメリカ | 教育・キリスト教 | アメリカの大学教育を経験し、同志社を創設 |
| 森鷗外(1862–1922) | ドイツ | 医学・衛生学 | 陸軍軍医として留学。 医学だけでなくドイツ文学・思想も紹介 |
| 北里柴三郎(1853–1931) | ドイツ | 細菌学・医学 | コッホに師事。 近代日本の細菌学・感染症研究を確立 |
| 青山胤通(1859–1917) | ドイツ | 内科学 | ドイツ医学を学び、日本の医学教育・内科学に影響 |
| 長井長義(1845–1929) | ドイツ | 化学・薬学 | ドイツで化学・薬学を学び、日本近代薬学の基礎を築く |
| 田中館愛橘(1856–1952) | イギリス・ドイツ | 物理学 | 物理学・地磁気研究。日本の近代物理学を支えた人物 |
| 菊池大麓(1855–1917) | イギリス | 数学 | ケンブリッジ大学で数学を学ぶ。東京帝大総長・文相 |
| 辰野金吾(1854–1919) | イギリス | 建築 | 英国建築を学ぶ。東京駅・日本銀行本店などを設計 |
| 高峰譲吉(1854–1922) | イギリス・アメリカ | 化学・工業技術 | 化学工業・バイオ技術。後に米国で研究・事業活動 |
ここに掲載した以外にも代表的な人物として紹介すべき人物は大勢いますが、ここでは明治近代化の傾向を掴む目的で、各分野から少人数ずつ抽出しています。
フランスに留学した西園寺公望は、江戸時代に生まれ、昭和を見届けた人物でもあります。
偉人たちの人生を振り返ると、遠い昔のように感じる歴史も身近に感じるかもしれません。
💡関連記事:江戸時代に生まれ、昭和を見届けた5人の偉人たち ― ペリー来航は本当に遠い昔?
明治日本におけるドイツの位置付け
1871年にドイツ帝国が成立すると、ドイツ(とりわけプロイセン)は
「急速に近代化し、強力な軍隊と官僚制を持ちながら、皇帝を中心とする国家」
として、日本にとって非常に参考にしやすい存在になりました。
- 森鷗外 → ドイツ医学
- 北里柴三郎 → ドイツ細菌学
- 桂太郎 → ドイツ軍制
- 伊藤博文・井上毅 → ドイツ・オーストリア系の憲法・国家学
日本はドイツから多くの事を学びますが、ドイツ以外からも多くの事を学んでいます。
特に、西園寺公望(さいおんじ きんもち)や中江兆民(なかえ ちょうみん)がフランスから学んだのは象徴的で、自由主義・共和主義・人民主権・フランス革命以来の政治思想という、ドイツとは別の潮流があります。
また軍事面においては、陸軍についてはドイツから多くの事が学ばれた一方、海軍についてはイギリスから造船などを含めて多くの事が学ばれています。
日露戦争当時、日本海軍軍医総監だった高木兼寛はイギリスに留学経験がありました。
高木の脚気への取り組みからは、イギリス海軍医学の考え方も見えてきます。
💡関連記事:高木兼寛はなぜ前提を疑えたのか ― 脚気が突き崩した医学の常識
日本はどの国から何を学んだのか
日本はどの国から何を学んだのかは、実際には相互に重なっており、簡単には断定できません。
ただ、方向性を掴むために、かなり乱暴に単純化すると、
- 国家をどう作るか → ドイツ
- 自由や政治思想をどう考えるか → フランス
- 産業社会をどう作るか → イギリス
- 教育や新しい社会生活 → アメリカ
という四極構造として見ることもできます。
※実際には各国の影響は分野をまたいでおり、ここでは特徴を掴むために単純化しています。
この枠組みを持っておくと、明治時代に活躍した人物を覚えたり、当時の国際社会における各国の状況や特徴を把握するのに役立つかもしれません。
当時の日本が向き合った国際社会とは、どのようなものだったのでしょうか。
日本が次々と不平等条約を結んでいった歴史からは、その輪郭も見えてきます。
💡関連記事:なぜ追加で不平等条約を締結したのか ― 国際社会と向き合った日本
留学先はどのように選ばれたのか
留学する人の選定や、留学先・学ぶ分野についてはどのように決定されていたのでしょう。
本節では、明治日本がどのように人やモデル国家を選んでいったのかを振り返ります。
幕末~明治初期の分散的な留学政策
明治政府成立以前から、幕府や各藩が独自に留学生を送っていました。
たとえばイメージとしては、
- 幕府「海軍技術が必要だ」
- 薩摩藩「英国から学ぼう」
- 長州藩「自分たちも人を送ろう」
- 医学校「ドイツ医学を採用しよう」
といったような、分散型が基本でした。
明治政府成立後もしばらく、この性格が残ります。
たとえば大学南校は優秀な学生・教員を選んで米英などへ送り、医学を担当する大学東校は「ドイツ医学を採用する」と決めたため、留学生もドイツへ送っています。開拓使は開拓政策の必要から留学生を送り、津田梅子ら女子留学生も開拓使の事業でした。
そのため、明治初期には、
- 陸軍省 → 軍人を派遣
- 海軍省 → 海軍軍人を派遣
- 工部省 → 技術者を派遣
- 開拓使 → 農業・開拓関係者を派遣
- 文部省・その前身機関 → 学生・研究者を派遣
というように、必要性を持っている役所がそれぞれ動く構造が基本でした。
専門家の招聘と留学
明治日本では、日本人を海外へ留学させる一方、外国人専門家を日本へ招聘する方法も採られました。
具体的には、
- 医学 → ベルツ(ドイツ)
- 法律 → ボアソナード(フランス)
- 工学 → ダイアー(イギリス)
- 海軍教育 → ダグラス(イギリス)
などが挙げられます。
専門分野でモデル国を決める
→ その国から教師を呼ぶ
→ その国へ日本人を留学させる
「外国へ人を送る」と「外国から教師を呼ぶ」の両方向から知識を吸収し、最終的には
日本人が外国人教師を代替
していきました。
留学政策の課題と見直し(一斉帰国)
明治初期頃にも、政府は留学政策について制度を整えていっています。
- 1870年(明治3)に「海外留学生規則」
- 1872年(明治5)に「学制」
が定められています。特に「学制」では、留学生を文部省の管轄として、官選・私願、選抜試験、留学期間、学費、帰国後の義務などをかなり細かく定められています。
しかし留学生について伊藤博文は、
留学先や学習内容を本人が「自選独決」している
(国費を投入しているにも関わらず、留学者が目的と違うものを学んでいる)
と問題視しました。
文部省も、当時約250人の官費留学生がいたものの、多くが旧藩時代の選抜を引き継いだ人々で、「選択について必ずしも適当ではない」と評価しています。
そこで文部省は
1873(明治6)年、官費留学生を中心にいったん一斉帰国
させています。
指定されるようになる留学
大きな転換点が1882(明治15)年の官費留学生規則です。
対象は原則として東京大学卒業生のうち、「将来大成ノ望アル者」が選抜されました。
そして重要なのが、本人ではなく文部卿が
- 学科
- 留学する国
- 留学期間
- 留学する学校・研究機関
を指定するようになったことです。
さらに帰国後には、
「留学期間の2倍の期間、文部省が指定する職務に就く」こと
が義務付けられます。
モデル国・人材はどう選ばれたのか
1892(明治25)年の「文部省外国留学生規程」では、第一条で、
- 文部省外国留学生は「特ニ須要ノ学術技芸」を研究させるため、
- 文部省直轄学校の卒業者または教官から選抜して派遣する、
と規定されました。
この頃から、大学・医学・理学・工学・教育などの学術人材についてかなり中央集権的に管理されるようになります。
しかし、各省がそれぞれ必要な専門人材を育成する構造は残ります。
文部省が学術人材を育成する一方で、各省庁では
- それぞれ西洋を調査し、
- 自分の所管分野についてモデル国・技術・人材を選択する
といった育成も進められます。
すべてが政府主導だったのか
明治政府は近代化を推し進めていましたが、すべての分野が政府主導だったわけではありません。
実際には、
- 国家が必要性を判断して直接導入した分野
- 軍人・官僚・法学者など
- 国家が制度・資金・教育基盤を作り、その中で専門家が発展させた分野
- 医学・科学・工学など
- 民間人がかなり自主的に学び、社会へ広げた分野
- 文学・思想・宗教・出版など
のように、分野によっても国家・政府の介入度合には違いがあります。
増えていく民間の海外活動
また、明治初期には海外旅行そのものが非常に高価でしたが、交通・通信・経済状況が改善し、西洋語教育も広がるにつれて、私費留学や民間の海外活動も増えていきました。
すると、
- 文学
- 美術
- 思想
- 宗教
- 商業
- ジャーナリズム
などの分野では、政府の政策とは必ずしも一致しない西洋文化が流入するようにもなりました。
統制が難しい「人の学び」
近代化の歴史を学ぶ中では、理解のために、「どの国から」「何を学んだ」と単純化して整理したくなるものです。それは大きな流れを掴むためにも役に立ちます。
しかし、実際の「人の学び」はそれほど単純ではありません。
政府によって外国へ送られた人は、
政府が指定した専門分野だけを見て帰ってくるわけではない
からです。
専門分野以外も持ち帰る留学者
例えば、森鷗外は「ドイツの衛生学・軍陣医学の学び」を目的として送り出されています。
ところが鷗外はドイツ語を身につけ、ドイツ社会を経験し、文学や哲学にも触れます。
そして帰国すると、医学分野の知識だけでなく、ゲーテやハイネなどのドイツ文学をはじめ、アンデルセンなど広く欧州文学を紹介しました。
つまり、
国家が医学を輸入するために一人の青年をドイツへ送ったら、
その青年がヨーロッパ文化まで持って帰ってきた
という現象が起こっています。
これは明治の西洋化を考えるうえで、非常に重要な視点でもあるでしょう。
森鴎外は文豪としても知られていますが、医学者として活躍した人物でもあります。
明治時代に起きたペストなどの感染症対策にも、最新の医学・衛生学は役立てられました。
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現代社会を見るヒント
明治時代の日本では、とても多くの事が海外から学ばれました。それは単一の国からではなく、各分野ごとにモデルとなる国家が選ばれることもありました。
明治時代の近代化の歴史は、現代の私たちの社会に繋がっています。
かつて目標とした欧米諸国は、今では対等な国際社会の一員となっています。
ニュースなどで国の名前を聞いた時などに、かつて日本がどのような事を学んだ国なのかを思い出すと、その報道の背景を想像しやすくなるかもしれません。
また、明治日本が法学や軍制のモデルとしてドイツを選んだように、他の分野でモデル国家が選定された背景に興味を持つと、世界の歴史や現在の世界の構造が、より一段と鮮明に見えるようになるかもしれません。
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