日本では、皇室に関する発言などが「不敬」という言葉で非難されることがあります。
内心の自由が保障されている日本では、法の上では「敬うべきもの」は定められていません。
なぜ法を守っているのに非難されるのでしょうか。
本記事では、不敬・敬意の意味や役割を確認した上で、法制度を含めた社会秩序の観点から、敬意の位置付けを整理します。社会が「法で定められない敬意」を求める構造も見えてきます。
不敬と敬意
「不敬」という言葉は、「何を敬うべきか」が先に存在し、その前提の上で初めて成立する概念といえるでしょう。
そのため、「不敬とは何か」を考える場合には、「敬うとは何か」も伴に整理する必要があります。
不敬とは何か
不敬という言葉は、漢字の通りに分解すると、
- 敬 = 相手を尊重し、礼を尽くすこと
- 不敬 = その敬意を欠くこと
となります。
この言葉には、敬意を払うべき対象やその原理は含まれていません。
つまり不敬とは、
共同体が「敬うべき存在」と認めている対象に対し、その敬意を欠く行為
という社会的な概念と整理できるでしょう。
時代や文化によって異なる「敬意を払うべき」対象
敬意を払うべき対象は一定ではありません。
例えば、
- 儒教:「父母を敬う」
- 神道:「神を敬う」
- 封建社会:「主君を敬う」
- 近代国家:「国家元首や国旗・国歌を敬う」
などが代表的なものとして挙げられます。また、対象はひとつとも限りません。
なぜ共同体は敬意を求めるのか
敬意は単なる礼儀ではありません。
敬意は必ずしも共同体秩序のために存在するものではありませんが、社会的役割・象徴・伝統に対する敬意を表す規範や儀礼は、
- 共有価値を確認し、
- 人間関係を予測可能にし、
- 結果として「共同体の連帯や秩序を支える」
ことがあります。
敬意には人格的・倫理的な側面がありますが、
社会や共同体秩序の観点においては、
(権威そのものを守るというよりも)
その権威を中心に成り立つ共同体秩序を守るために
敬意が求められているともいえるでしょう。
ただしその一方で、その敬意規範は権威や格差を固定し、異論を抑圧することもあります。
秩序維持という機能だけから「敬意の正当性」を判断することもできません。
具体的な例で考える「不敬」と「秩序」
敬意が失われた場面を具体的に考えてみましょう。
例えば、
- 家族:「親を侮辱してよい」
- 軍隊:「上官を侮辱してよい」
- 国家:「国家の象徴を皆が公然と侮辱する」
という状況はどうでしょうか。
敬意の失われた共同体では「一体感」が弱まり、その結果として「秩序」も乱れやすくなると考えられます。
敬意が共同体秩序に必要なのであれば、「敬うべきもの」は法で定められているのでしょうか。
不敬と法 ― 内心の自由と敬意
現代日本の法制度では、「敬うべきもの」は定められていません。
しかし、かつての日本では「敬うべきもの」が法で定められており、それに反する言動は「不敬」として罪に問われていました。
本節では、廃止された不敬罪の経緯をたどり、現代の法制度での「敬意の位置付け」を整理します。
「不敬罪」とは何か
不敬罪は、明治時代の刑法に設けられていましたが、戦後の刑法改正によって、1947年(昭和22年)10月26日公布の改正法で廃止されました。
この改正によって、刑法の「皇室ニ対スル罪」という章自体が削除されました。
改正前の刑法では、
- 天皇
- 皇太后・皇后など
- 皇族
- 神宮
- 皇陵
に対して「不敬の行為」を行うことを処罰していました。
刑罰としては、
- 天皇等や神宮・皇陵への不敬:3か月以上5年以下の懲役、
- 皇族への不敬:2か月以上4年以下の懲役
等が規定されていました。
どこまでが不敬だったのか
不敬罰には刑罰規定はありましたが、「不敬の行為とは何か」までは、明確に示されていませんでした。そのため、何を不敬として扱うのかは行政や裁判所の判断に委ねられやすく、表現活動にも影響を与える制度でもありました。
不敬罪が廃止された背景
戦後の日本政府は当初、大逆罪や不敬罪を残したいと考えていました。
日本政府(吉田茂首相)は、
- 天皇への暴力は国家への攻撃でもある
- 皇族も特別に保護すべきである
- イギリスなど君主国にも同様の制度がある
という理由で存続を求めました。
しかし、天皇は日本国憲法で「日本国および日本国民統合の象徴」と位置付けられました。
そのため、GHQ(マッカーサー)は
天皇は国民統合の象徴である以上、
一人の人間として一般国民以上でも以下でもない法的保護を受けるべきではない。
という考えを示し、日本の主張を退けます。
不敬罪は廃止され、刑法で「敬うこと」は強制されなくなりました。
不敬罪とともに廃止された「大逆罪」は、天皇や皇族の生命・国家体制そのものを害する罪でした。大逆罪はなくなりましたが、現代でも国家そのものを守る法制度は存在します。
💡関連記事:クーデターは何の罪になる? – 日本の刑法
敬意は否定されたのか ― 内心の自由と敬意
不敬罪は廃止されましたが、敬意そのものが否定されたわけではありません。
例えば、
- 皇室を敬う自由
- 神宮を敬う自由
- 祖先を敬う自由
は現在でも当然に認められています。
法制度上では、敬う事も敬わない事も、等しく内心の自由で認められています。
ただ、法制度としては「敬意の強制」が廃止されたということになります。
不敬という批判は罪に問われるか
法で「敬うべきもの」が定められていないのであれば、他者を「不敬」として批判してしまうと、逆に罪に問われるのでしょうか?
日本国憲法19条は、
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
と定めています。また、21条は言論・表現の自由を保障しています。
したがって、ある人には「天皇や伝統を敬わない自由」があり、別の人にはそれを「不敬だと批判する自由」があります。両者とも、原則として表現の自由の領域に属します。
ただし、
- 「あの人は天皇を敬わないから人間として最低だ」
- 「反社会的な危険人物だ」
といった社会的評価を低下させる形で公に攻撃すれば、内容や状況によっては名誉毀損・侮辱の問題になります。刑法231条は、事実を摘示しなくても公然と人を侮辱する行為を処罰対象としています。
また労働法上では、信条などを理由として労働条件について差別的取扱いをすることには制約もあります。
その他、繰り返し取り囲む、電話やSNSで攻撃を続ける、生活や仕事を妨害するといった場合には、民事上の不法行為や、状況によっては各種犯罪が成立する可能性もあります。
したがって法は、概ね以下の線引きをしていると整理できます。
- 意見には意見で対抗することは認める。
- しかし、暴力・脅迫・権力濫用・名誉侵害などによって、相手の思想や行動を強制的に変えさせることは制限する。
どんな危険な思想であっても、国家がそれを是正することは基本的にはありません。
例え社会秩序を乱した場合でも、再発防止として特定の思想を是正することもありません。
なぜそこまで思想を守るのかを考えると、法が定める正しさの性質も見えてきます。
💡関連記事:なぜ危険思想を是正しないのか ― 思想の自由の限界線
罪にならないなら「不敬は問題ない」のか
罪に問われず、法では裁かれない「不敬」は問題がない行為でしょうか。
不敬な言動を行えば、
- 周囲から排除される
- 仕事上の関係を失う
- 家族や地域で孤立する
- 公の場で発言しにくくなる
ということは起こり得ます。
これは広い意味では、内心の自由を社会的に萎縮させる力を持っています。
しかし、
法制度は、社会的圧力をすべて思想・良心の自由の侵害として禁止してはいません。
これは法律ではなく、共同体の規範が持つ力といえるでしょう。
暴力・脅迫などの不法行為を含まない方法で遠ざけられた結果、社会から孤立し、生存を脅かされることもあるかもしれません。しかし、通常「社会から孤立した」という結果だけでは、その社会や批判した人たちの法的責任を問うことはできません。
なぜ法は介入しないのか
批判・非難によって孤立し、その結果として人の生存が脅かされる状況であっても、なぜ法は介入しないのでしょうか。
もし「ある思想を批判して相手が孤立した。」だけで責任が生じるなら、誰も他人の思想を批判できなくなります。それは逆に、表現の自由を失わせることになります。
そのため法は、思想への批判そのものは認めています。
批判を規制することは、敬意を強制することと同じで、国家が正しい思想を示すことに他なりません。法に抵触する言動が含まれない限り、国家は批判・非難に対して介入することは通常ありません。
不敬と似た法外の批判「冒涜」
不敬と冒涜は、どちらも「法に定められていないことで非難されることがある」という点で、構造が似ています。冒涜・不敬と罪との関係を整理します。
| 概念 | 基準 |
|---|---|
| 罪 | 社会秩序を乱すこと(法・宗教などの規範に依存) |
| 冒涜 | 神聖視されるものを汚すこと |
| 不敬 | 敬うべき対象への敬意を欠くこと |
不敬という語は、漢字としては「敬意がない」という分かりやすい構造をしています。
一方で、冒涜という語には、少し馴染みのない漢字が使われています。
語の構造から冒涜の概念を掘り下げ、私たちの価値観を客観視します。
💡関連記事:『冒涜』とは何か ― 『冒す』『涜す』から考える私たちの価値観
共同体秩序と法制度 ― 法だけに従えばいいのか
ここまで確認してきた通り、不敬は法制度上では問題のない行為でしたが、社会生活を営む上では問題もありそうでした。
人は「法に従っておけばいい」のではないのでしょうか。
法制度として定められない正しさは、それでも正しいといえるのでしょうか。
なぜ共同体は不敬を遠ざけるのか
法で規制されていない言動を基に、共同体・社会から排除される原理には、どのような力が働いているのでしょうか。
共同体は
- 称賛
- 尊敬
- 信頼
だけでなく、
- 批判
- 排斥
- 孤立
によっても秩序を維持します。
法だけでは共同体は成り立ちません。
誰も違法行為をしていなくても、
- 他者を軽蔑する
- 約束を破り続ける
- 世話になった人を使い捨てる
- 死者や祖先を嘲笑する
- 共同体の象徴を意図的に傷つける
といった行動が広がれば、社会的な信頼や連帯は弱まります。
共同体はそういった行為を批判・排除することで、共同体全体の秩序を守ろうとします。
法の評価と法外の評価
つまり現代では、
- 不敬であるかどうかを共同体が評価する
- 違法であるかどうかを法が評価する
という二つの軸があるといえます。
共同体において法外の正しさは必要である一方、法外の制裁は暴走しやすい性質も持っています。
共同体を守るための非難が、結果として共同体の構成員を破壊することもあり、それ自体は別の倫理的な問題になります。
共同体が秩序を守るために、問題となる行為や思想を警戒することには一定の合理性があります。
しかし、その警戒が行為から人物へ、人物から集団全体へと広がるとき、秩序維持は差別を正当化する論理へと変わる可能性があります。
「秩序を守る」という目的だけでは、その手段の正当性までは保証されません。
共同体秩序を維持する方法は時代によって異なります。
日本の江戸時代には、共同体の秩序維持と結び付けられた身分制度も存在しました。
差別は憎悪から始まるとは限らず、警戒の一般化として生じることもあります。
💡関連記事:江戸時代の非人は差別か救済か ― 実態から整理する機能と問題
法だけに従えばいいのか
人はしばしば、
- 合法なら問題ない
- 違法でなければ自由
- 法で禁止されていないなら批判される筋合いはない
と考えます。
しかし、法は正しいこと全てを網羅した一覧ではありません。
多くの人が「正しい」「望ましい」と考えるものであっても、そのすべてを法的義務にすることはできません。法にすれば、国家が人の感情、人格、思想、関係性にまで介入することになるからです。
したがって、
法にできないから正しくないのではなく、正しいとしても強制には適さない
という領域があります。
法にできない正しさは「正しさが弱い」のではなく、「強制したときの害が大きい正しさ」といえるでしょう。こういった法が介入しない領域は、倫理や文化が支えているともいえます。
結局敬意はどうしたらいいのか ― 近代国家のジレンマ
敬意がない共同体は信頼や連帯が弱まり、その結果として秩序が脅かされるとしても、法で敬意を強制することはできません。
- 自由を重視しすぎれば共同体の規範が弱まる
- 共同体を重視しすぎれば少数派の自由が損なわれる
この問題は、近代自由主義国家が抱えるジレンマともいえます。
そのため現代の法治国家は、完全な答えを示すのではなく、
- 法は「暴力や権力の濫用」を止める。
- 社会は価値判断や評価を行う。
- 個人はその評価を受けながらも、自らの信念を選ぶ。
という役割分担を採っています。
法は秩序を守る重要な制度ですが、唯一絶対のものではありません。
共同体から見た「不敬」
法に定められていないから敬意が必要ないと考えることは自由ではありますが、それを批判・非難することも自由として認められています。
しかし不敬は「共同体が長年大切にしてきた象徴そのものへの攻撃」と受け取られることがあります。
不敬な言動が「アイデンティティへの侵害」と捉えられると、その共同体からの排除が進む可能性があります。同じ共同体の中にはいられなくなるかもしれません。
共同体に共有される敬意や価値観
不敬を正しいと考える人たち(既存の共同体から排除された人たち)が集まり、また新しい共同体を形成することもあるでしょう。
そこには異なる信念や価値観に基づいて「新しいアイデンティティ」が築かれ、また同じような構造で「大切なもの」が守られることになるでしょう。
既存の共同体とは「敬うべきもの」は異なるかもしれません。
それは実在する対象から、特定の理念や思想に移り変わるかもしれません。
その共同体が何を大切と考え、何を不敬と捉えるのかを考えてみると、自分の所属する共同体や、他者との関係性・違いなど、社会全体の構造が整理しやすくなるかもしれません。
私たちは誰を敬い、何を大切にしているのでしょうか。
- 家族でしょうか。
- 国家でしょうか。
- 宗教でしょうか。
- ある理念でしょうか。
共同体とは、「何を敬う人々なのか」によって形作られているのかもしれません。
以下の特集記事では、私たちが当たり前だと思っている価値観を、歴史や他文化との比較を通して見つめ直します。

