豊臣秀吉の死後、日本のキリスト教政策は大きく転換しました。
徳川家康のもとで始まった禁教政策は、外交と信仰の狭間で次第に厳格化していきます。
家康から秀忠の時代までの流れを、年表で整理します。
年表:家康から秀忠の時代まで
凡例:
赤色背景 ー 「スペイン」関連
黄色背景 ー 「家康・秀忠(幕府)の動き」関連
| 年 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1598年 | 豊臣秀吉の死去 | 「伴天連追放令」は形式的に残るが、実際の布教統制は緩み、 宣教師の活動が再開される。 |
| 1600年 | リーフデ号漂着(オランダ船) | オランダ船が豊後に漂着。 航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステンが家康と接触。 家康はプロテスタント勢力への理解を深める。 |
| 1603年 | 江戸幕府の成立 | 家康が征夷大将軍に就任。国内統治と対外関係の体制が確立される。 |
| 1609年 | オランダ東インド会社(VOC)、 平戸に商館を開設 | 家康の許可を得て商館設立。 オランダは布教を行わず、交易重視の姿勢で信頼を得る。 |
| 1611年 | スペイン使節ビスカイノ来日 | 態度が高圧的で家康の反感を買う。幕府はスペインへの不信を強める。 |
| 1612年 | 有馬事件 | 有馬晴信の家臣がスペイン船員を殺害。 宣教師の介入を家康が問題視し、宗教勢力の政治的影響を警戒。 |
| 1612年 | 局地的禁教令(駿府・江戸など) | 家康が幕府直轄地に限定してキリスト教布教を禁止。 禁令下でも布教が続き、幕府の不信を助長。全国禁教令に繋がる。 |
| 1613年 | 支倉常長、慶長遣欧使節として出発 | 伊達政宗の使節団としてメキシコ・スペイン・ローマに派遣。 |
| 1614年 | 全国禁教令の発布 | 将軍・秀忠名義だが実質は家康の決定。 宣教師追放と信徒改宗を命じる。キリスト教は地下化へ。 |
| 1614年 | 高山右近、国外追放 | 信仰を棄てずマニラへ追放。翌年病没。 日本における公的キリシタン信仰の象徴的終焉。 |
| 1616年 | 徳川家康死去 | 家康の禁教方針を秀忠が継承。幕府の宗教統制が制度化の方向へ進む。 |
| 1619年 | 元和大殉教(京都) | 秀忠政権下で52名のキリシタンが処刑される。 禁教令後の初の大規模殉教事件。 |
| 1620年 | 支倉常長の帰国 | 現地での洗礼・教皇謁見が判明し、幕府が宗教勢力への警戒を一層強める。 以後、スペイン断交方針を強化。 |
| 1622年 | 長崎大殉教 | 宣教師・信徒計55名を公開処刑。 キリスト教弾圧が全国的に強化される契機となる。 |
| 1623年 | スペイン人追放令 | 外交交渉を装った宣教師再入国を理由に、幕府がスペイン人の国外退去を命じる。 以後、スペインとの通商を全面断絶。 |
| 1624年 | スペイン船来航禁止 | フィリピン・メキシコ方面のスペイン船の日本来航を全面的に禁止。 ポルトガル貿易は継続されたが、幕府の警戒は強まる。 |
| 1624年 | オランダ、北米マンハッタン島に ニューアムステルダム建設 | 日本の禁教政策と対照的に、オランダは世界的商業国家として拡大。 後のニューヨーク。 |
| 1630年頃 | 長崎奉行による宗門改の原型が成立 | 信仰調査の制度化が始まり、幕府の宗教統制体制が整う。 |
| 1632年 | 徳川家光、実権を掌握 | 家康・秀忠の政策を継承し、宗門改・踏絵などによる全国的弾圧体制を確立。 キリシタンは潜伏期へ入る。 |
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この年表に関連した出来事や動きについては、以下の記事で詳しく解説しています。
