達成することが難しい事というのはあるものです。目的の達成を諦めることは、しばしば”苦渋の選択”とも表現されます。
しかし、諦めることは負けなのでしょうか。
本記事では、仏教での”出来ない事”との向き合い方を整理した上で、仏教語の”諦める“が本来どういった意味の語なのかを確認します。
現代では違った意味で使われるようになった語から、日本人の考え方・感性の方向性を捉えます。
仏教での”出来ない事”との向き合い方
出来ないことに対して努力することは、日本では美しい事・正しい事とされる傾向にあります。
これは儒学的な勤勉観とも結び付く価値観といえるでしょう。
それでは、儒学よりも古くから日本に広がっている仏教では、”出来ない事”についてどのように考えるのでしょうか。その考え方を紐解きます。
「人は苦しむ存在」という前提
仏教では、
- 老い
- 病
- 死
- 別れ
- 欲望
- 執着
- 思い通りにならなさ
を、人間存在の根本問題として見ます。
つまり、「努力すれば何とかなる」よりも先に、
「そもそも世の中は思い通りにならない」
を置く思想です。
江戸時代に日本で広がった儒学では”理想的人間像”を比較的強く持ちますが、
仏教では、
- 人は弱い
- 煩悩を消しきれない
- 完全にはなれない
- 善人ですら迷う
という感覚が、前提として在るといえます。
「出来ない存在である事」を認める
特に日本で大きな影響を持った浄土系の宗派においては、
- 修行しても
- 学んでも
- 善行しても
- 意志を強く持っても
人は煩悩から完全には逃れられないと考えます。
だから、阿弥陀仏の救済(他力)に頼るという発想です。
ここでは、「できない人間 = 失敗者」ではありません。
むしろ、
“できない存在であること”を認める
ということが出発点になります。
「できないことを含めて、どう在るか」
臨済宗や曹洞宗などの禅系では、少し違う方向になります。
禅では、
- 思い通りにならないこと
- 言葉で割り切れないこと
- 人間の限界
そのものを見つめます。
そして、
「できないことを無理に理屈で支配しようとする執着」
を手放そうとします。
そのため禅宗では、「なぜできないのか」を徹底追及するより、
「できないことを含めて、どう在るか」
に向かいやすい傾向にあります。
“諦める”という語
現代日本語でも使われる「あきらめる」は、
仏教語と結び付くことで、重要な思想的意味を持つ言葉
として用いられてきました。
しかし、その言葉の意味や使われ方は、時間の流れの中で少しずつ変化していきました。
本来はどういった意味だったのでしょうか。
現代の意味・用法 ― 物事を断念する
現代では「あきらめる=断念する」という意味で使われるのが一般的です。
辞書的には以下のように説明されることが多いでしょう。
望みが叶わないと悟って、そのことをやめること(断念する、思い切る)
この言葉には、「投げ出す」といった意味が含まれることもあり、現代においては否定的(ネガティブ)なニュアンスを伴うことも少なくありません。
本来の意味・用法 ― 物事を明らかに見る
「諦」という漢字は、中国語でももともと
- つまびらかにする
- 明らかにする
- 詳しく調べる
という意味を持っていました。
「あきらめる」は、もともと「あきらかにする・明らかに見る」という意味を持つ和語系の語であり、仏教語の「諦」と結び付くことで、仏教的な意味を帯びて用いられるようになりました。
当初は、
物事の本当の姿を見極める
という意味でした。
例えば、
- 自分の能力
- 世の流れ
- 老いや病
- 人の心
などを、願望ではなく現実として理解することです。
仏教で「あきらめる」は、「負けを認める」ことではありません。
むしろ、
現実を正しく知り、その現実に執着しないこと
です。
物事を「明らかに見る」ことで苦しみを減らしていこう、という考え方です。
仏教的には、「諦める」は消極的な言葉ではなく、現実を直視する知恵の始まりという、むしろ前向きな意味合いを持っていました。
「努力」と「諦め」を兼ねる日本人の感性
私たち日本人の中には、諦めず努力を続ける人を高く評価する感性があります。
頑張る人はカッコいい。努力する姿は美しい。
そういった人たちには報われて欲しいと思い、応援したいという気持ちも芽生えます。
日本人の感性の変遷
現在の日本人は、
- 儒学的な勤勉
- 仏教的な無常観
- 神道的な自然や共同体との調和感覚
を混ぜて受け継いでいます。
日本人の価値観は、仏教や儒学など複数の思想が複雑に絡み合って形成されています。
「諦める」という語は、本来の仏教語としての意味から変化し、社会の価値観の変化に合わせてその意味を変化させています。
しかし社会に広がったその価値観は、普遍的なものではありません。
江戸時代に取り入れられた儒学は日本に広がり、明治以降の近代国家形成の中では、勤勉・忍耐・努力といった価値観が教育や社会規範の中で強調されました。その価値観の中では、努力を放棄して諦めることは、前向きな意味としては捉えられ難かったと考えられます。
本記事は、頑張ることを否定するものではありません。
ただ、どうしても出来ない事と向き合い、挫けそうな思いを抱えている人達に対して、新しい視点・考え方を提供することを目的としています。
自分は何てダメなんだ。諦めて負け組になるのは嫌だ。
そのように考えている自分を客観視し、「なぜ自分はそう考えるのか」と自分自身と向き合ってみると、その背景にある社会的な価値観や特定の宗教・思想も見えてきます。
多くの場合、それは普遍的な真理ではなく、ひとつの考え方に過ぎないでしょう。
違う考え方や価値観を知ることで、自分が苦しみから解放されるだけでなく、他者に対しての向き合い方もまた変化するのではないでしょうか。
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